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2005.01.24

見沼通船堀

さいたま市の東部の見沼は、もともと沼地だったものを徳川家康の江戸入府直後に南側に堤防(八丁堤)を築いて、灌漑用の1200ヘクタールの広大な溜池になりました。見沼溜井(ためい)と呼ばれました。(画像をクリックすると拡大表示)tusenbori_map
ところが八代将軍吉宗(暴れん坊将軍ですね)の新田開発政策のため、堤防の一部を壊して溜井の水を抜き田圃に変えました。現在も残る見沼田圃です。さらにこの田圃に水を確保するため、60キロも北の利根川(現在の行田市)から用水路を引き、上尾市付近で東西2つに分岐させました。この用水路は溜井に変わるという意味から見沼代用水と呼ばれ、東側を流れるものを東縁(ひがしべり)用水、西側を西縁(にしべり)用水と呼びます。さてこの工事はなんと6ヶ月で完成させたそうです。そしてこの壮大な工事を指揮したのが、紀州の天才的な土木技術者の井沢弥惣兵衛為永という人でした。井沢弥惣兵衛為永がすごいのはこの広大な田圃を短期間でつくったことだけではありませんでした。彼は東西の用水の間を流れる芝川が荒川(隅田川)を通じて江戸へいたることを利用して水運を考えました。東西の用水の流域の農産物(主に年貢米)を芝川に集めて江戸へ送り、帰りは江戸から肥料や塩・醤油などを運ぶものでした
ところが芝川と東西用水は3メートルの水位差がありました。そこで彼は閘門(こうもん)式という運河を考えました。東西の用水と芝川を結ぶ堀にそれぞれ2つの関を設け、関の板をはめたりはずしたりすることで関内の水位を調節して、底の平らなひらたぶねという船を通行させました。考え方はパナマ運河と同じです。しかもパナマ運河より183年も前に完成させたのですからすごいことです。。tusenbori_2seki2
この運河は見沼通船掘(つうせんぼり)と呼ばれ、車などの陸上輸送が盛んになる大正末期までは利用されていました。現在はJR武蔵野線東浦和駅のすぐ南側の西縁から芝川・東縁に向けて東へ1キロほどの掘割の周辺は公園として整備されています。東西2つずつある関も復元され、他に通船の差配を代々行った鈴木家住宅、水運に関わる人々が安全を祈願した水神社など歴史散歩には最適です。

☆見沼通船掘のしくみ
 ①芝川に船が着くと一の関の板をはずして一の関と二の関の間の水位を下げます。
tusenbori01
 ②水位が下がると舟は一の関と二の関の間に進み、一の関の板を戻します。
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 ③次に二の関の板をはずして代用水路の水位を下げます。
tusenbori03
 ④水位が下がると舟は代用水路に進み、二の関の板を戻します。
tusenbori04
 ⑤戻りは逆の手順で芝川に戻ります。
tusenbori05

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Comments

おもしろかった〜。伊沢さんって頭よかったんだね〜。

スエズ運河はどうなってるのかしら?あそこに行った時も、結構浮かんでる時間が長かったんだけど。

Posted by: 凛々 | 2005.01.28 at 10:42 AM

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